京都大学 歴史研究会 議事録

京都大学歴史研究会のブログです。 毎週の活動報告なんかをしていきたいと思っています。

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年末の挨拶と報告

お久しぶりです、littleです。

2014年ももうすぐ終わってしまいます。
やれSTAPだのゴーストライターだの野々村議員だの、何とも言えない出来事が多発した一年でした。……この辺の事件のインパクトが強すぎて、他に何があったかさっぱり思い出せないのはいかがなものなのでしょうか……
歴史研究会としては10年ぶりに11月祭に出展したり、例会における発表が充実していたりと、活動が盛んな一年でした。比較的多くの新入会員にも恵まれ、喜ばしい限りです。来年もこんな調子で行けたらなーなんて思っております。

それとご報告があるのですが、当歴史研究会は西団連(京大のサークル棟を自主的に管理する団体です)の第10期幹事ならびに防音室使用者会議担当となりました。少し面倒ではありますが、持ち回りでやっている以上いつかはやらなければならないことですし、それなりに頑張ります。

以上です。では皆様、良いお年を。
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寺社にまつわる日本史 上御霊神社編

御無沙汰しております、littleです。
以前から執筆していた『戦国時代概説』が校了し、しばらく燃え尽きておりました。
現在例会で発表中ですので、興味のある方は是非足をお運びください。

今回は停滞していた「寺社にまつわる日本史」の第3回をお送りしようと思います。
取り上げるのは上御霊神社です。

上御霊神社


上御霊神社には以下の八柱が祭られています。

・崇道天皇(早良親王、光仁天皇の子)
・井上大皇后(光仁天皇の皇后)
・他戸親王(光仁天皇の子)
・藤原大夫人(藤原吉子)
・橘大夫(橘逸勢)
・文大夫(文屋宮田麿)
・火雷神(以上六所の荒魂)
・吉備大臣(吉備真備)

吉備真備を除き、いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々です。橘逸勢や吉備真備らは非常に有名ですが、ここでは崇道天皇(早良親王)を取り上げようと思います。
早良親王は光仁天皇の子で、桓武天皇の弟です。784年、桓武天皇が長岡京に遷都した際、長岡京の造営を主導していた藤原種継(藤原百川の甥)が暗殺されるという事件が起こります。この事件の際に早良親王は藤原種継暗殺に関与したとして捕えられ、無実を訴えますが認められずに憤死してしまいます。その後、桓武天皇の母や皇后が相次いで死去するという不幸が起こり、早良親王の怨霊だと恐れられました。桓武天皇はそこから逃げるように、794年に平安京に遷都します。平安遷都にあたり、桓武天皇は794年に平安京の守り神として早良親王の御神霊を祀ったのが上御霊神社の興りです。この頃から非業の死を遂げた人の怨霊を鎮め、災いを取り除こうとする御霊信仰が明確な形になり始めました。
その後863年に疫病が流行したため、神泉苑で早良親王らを祀る行事が行われ、これが御霊会の始まりとなりました。この御霊会では庶民の参加も認められており、その後都市祭礼として定着していきます。

しかし、いつの時代にも神を恐れぬ所業を犯す輩は存在するもので、1467年に上御霊神社は戦場となります。すなわち、応仁の乱の幕開けとされる御霊合戦の舞台となったのです。
ここで干戈を交えたのは畠山義就と畠山政長でした。両者は畠山氏惣領の座を巡って対立し、そこに将軍家の後継者争いや、室町幕府における主導権争いが絡み合って一触即発の状況となっていました。1467年の正月18日、政長は上御霊神社に陣取り、そこに義就が攻め込んで合戦となり、義就方が勝利を収めます。この戦いは将軍足利義政の調停によって両畠山氏の「私闘」とみなされ、他の諸氏は手だししてはならないとされたため、この時点で大乱に発展することは避けられました。しかし、対立は修復できないほどに深まっており、上洛した守護大名らの激突は避けようがありませんでした。
以上のように、戦国時代においては神社といえども戦火から逃れることはできませんでした。本願寺や延暦寺、相国寺など戦場になったのは寺が多く、神社が戦場になった事例はあまり聞きませんが、全くなかったというわけではないことがわかります。

それにしたって、祀られている人々からすればいい迷惑です。戦国時代は小氷期にあたり、諸大名は「食うための戦争」を戦っていた、と言われることがありますが、そんな食糧事情の厳しいときにわざわざ神前で戦いをするなんて、祟りを為してくれと言わんばかり。まさか口減らし目的だったとか言わないでしょうね…… 絶対違うと思いますが。

以上、「寺社にまつわる日本史」第3回をお送りしました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

参考文献
・山川出版社『詳説日本史研究』五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編
・吉川弘文館『日本神道史』岡田荘司編
・吉川弘文館『戦争の日本史9 応仁文明の乱』石田晴男著
・上御霊神社ホームページ http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/

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寺社にまつわる日本史 南禅寺編

こんにちは。littleです。
今回は「寺社にまつわる日本史」の第2弾をお送りしようと思います。
今回取り上げるのは南禅寺です。

南禅寺

南禅寺のある土地には元々、後嵯峨天皇が造営した離宮・禅林寺殿がありました。後嵯峨天皇の子・亀山天皇はここで元寇の際に自戒・問法し、元寇を乗り切ります。そして元寇後に亀山天皇は落飾(出家)し、法皇となった後に禅林寺殿は南禅寺となりました。すなわち、南禅寺は勅願禅寺であり、非常に格式の高い禅寺であることがわかります。

このことを踏まえると、室町時代に五山・十刹の制が定められた際に南禅寺が別格として京都五山および鎌倉五山の上位に叙されたのは自然なことと思われます。しかしそのように上位におかれてはいるものの、南禅寺には僧録(官寺の管理及び住職などの任免を行う職)は置かれず、京都五山第二位に叙せられた相国寺に置かれました。これは一体なぜなのか。

五山・十刹の制度は、南宋のそれに倣い、禅寺の格式を定めたもので、鎌倉中期からその兆しが見え始めていました。建武の親政の頃には京都では南禅寺・大徳寺・建仁寺・東福寺、鎌倉では建長寺・円覚寺・浄智寺の各寺が五山の列にありました。ただし、その間の序列はまだ確定していません。
しかし、足利尊氏によって天竜寺が造営させると、改めて五山の列位が問題となり、この時は第一、建長寺・南禅寺、第二、円覚寺・天竜寺、第三、寿福寺、第四、建仁寺、第五、東福寺、と定められます。浄智寺は五山に准ずるものとされ、さらに浄妙寺以下の十刹の列位も定められました。この段階では、その列位は京都・鎌倉の禅寺が交ざった状態であり、その後追補や変動もありました。
ところが足利義満によって相国寺が造営されると、再び五山の列位が問題となり、再定されることとなります。義満としては自らが建立した相国寺を何としてでも五山の列位に入れたかったのですが、もうすでに京都における五山は埋まっています。そこで義満は一計を案じます。つまり、南禅寺を五山の上とし、第一、建長寺・天竜寺、第二、円覚寺・相国寺、第三、寿福寺・建仁寺、第四、浄智寺・東福寺、第五、浄妙寺・万寿寺という序列が決定したのです。
しかしこれでも満足しなかったのか、義満は後に天竜寺と相国寺の列位を入れ替え、相国寺を京都五山の第一位に叙することさえ行っています。(義満の死後元に戻される)

以上から、僧録が相国寺に置かれたことも併せて考えると、五山・十刹の制は由緒などを考慮したものではなく、義満の権勢に基づいた政治的な産物であると考えられます。
目の上のたんこぶである存在を隠居させて自分が権力を振るう、みたいな構図ですね。義満って腹黒いなあ、というのが個人的な感想です。

後に南禅寺は応仁の乱の戦火に巻き込まれ、伽藍が消失したのですが、再建はなかなか進みませんでした。しかし、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて南禅寺から「黒衣の宰相」の異名を持つ金地院崇伝が出ると、状況は好転し南禅寺は復興されていきます。更に江戸幕府によって室町時代以来相国寺におかれていた僧録の座が南禅寺に移ります。南禅寺は政治の意味でも臨済宗の最上位についたのです。
しかし、禅宗の世界において五山の力はかつてほどはなく、大徳寺や妙心寺といった山隣派と呼ばれる一派が勢力を伸ばしていました。江戸幕府は五山・山隣派各々の独立を認めていたため、五山・南禅寺下に統括した禅宗の展開は成りませんでした。

絶頂期には権力を持てず、ようやく力を手にしたと思いきや五山自体が斜陽化していた南禅寺は、何とも不運ですね。

これで今回はおしまいです。最後でお付き合いいただき、ありがとうございました。

 参考文献
・山川出版社『詳説日本史研究』五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編
・東京大学出版会『中世禅宗史の研究』今枝愛眞著
・淡交新社『京の禅寺』芳賀幸四郎・太田博太郎・玉村竹二著
・吉川弘文館『日本の名僧15 政界の導者 天海・崇伝』圭室文雄編
・臨済宗大本山 南禅寺 ホームページ http://www.nanzen.net/

 追伸
前回の記事に参考文献を載せることを失念していたので追加しました。申し訳ございません。

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寺社にまつわる日本史 吉田神社編

初めまして。littleと申します。
歴研メンバーとして初めてここに書き込みます。
実は去年の5月くらいにはすでに会員となってはいたのですが、今まで特に書くこともなく来てしまいました…
なのでこれからは少しずつ記事を書いていこうかと思います。

題名にもある通り、僕がこれから書くのは「寺社にまつわる日本史」です。
神社や仏閣は歴史の要素を色濃く残すもの。そして京都には多数の寺社が点在しています。
それならば、寺社という切り口から様々な歴史が見て取れるのではないか、と考えて書こうと思いました。

ということで今回は京都大学のすぐ近くにある吉田神社にまつわる話をします。
よろしければ御付き合いください。
なお筆者自身が浅学のため、あまり深いところまで触れることはできていません。ご了承ください。

吉田神社

吉田神社、と聞いてまず連想されることはおそらく吉田神道でしょう。吉田神道は室町時代の東山文化期に吉田神社の神職、吉田兼倶が完成させた神道の一派で、高校日本史の教科書にも出てくるほど有名かつ重要なもの。
では、そもそもなぜ吉田神道がそこまで重要なのか?
それは吉田神道が、後世の神道に対する影響のほかに、かなりの政治的権力を持っていたためと思われます。
ここでは吉田神道が政治的権力を手にする過程を描いていこうと思います。

まずは伊勢神道について語る必要があります。この一派は鎌倉時代に出現するのですが、仏教伝来以来、宗教界では神仏習合が進み、10~11世紀の摂関政治時代には「日本の神は仏が仮に姿を変えて現世に現れたもの」とする本地垂迹説が浸透していました。平たく言ってしまえば、仏こそがエラいのだ、ということです。
これに異を唱えたのが伊勢神道の大成者、度会家行です。鎌倉時代、元寇の襲来によって日本では国家意識が高揚していました。この元寇に際しての暴風雨は神風とされ、後のちまで日本の神国思想の根拠となります。以上のような風潮の下、家行は日本の神を主とし仏を従とする神道思想、反本地垂迹説を唱えました。つまり、神こそがエラのだ、と言ったわけです。
しかしながら、伊勢神道は次第に力を失っていきます。南北朝期の動乱によって伊勢神宮領が侵略され、経済基盤を失ったためです。結果、式年遷宮が行えない時代さえあったほどでした。

そんな状況で室町時代に出現したのが吉田神道です。
もともと吉田家は代々吉田神社の神職を務め、多くの学者を輩出した家柄でした。吉田兼倶の四代前にあたる吉田兼熙(かねひろ)は公家と武家の顧問役となり、南北朝合一に尽くし、「神道の元老」と呼ばれています。しかしながら、古典や神祇故実の学問においては重要な地位を占めてはいたものの、神祇官としては神祇伯(神祇官の長官)を世襲していた白川家(花山天皇の皇孫が臣籍降下したもの)の次官に甘んじていました。
また、吉田兼倶は足利義政・日野富子夫妻と親密な関係を築いていたのですが、応仁の乱によって朝廷儀式と祭祀は中絶、兼倶の屋敷も焼失してしまいます。彼自身が原因ではないとはいえ、伝統的祭祀を中絶させてしまった兼倶は、神祇の家としての面目を失ってしまいます。この経験が兼倶を新たな神道学説樹立へと駆り立てていくこととなります。
東山文化期、神道思想の立場からする『日本書紀』などの研究が進み、兼倶は伊勢神道以来の反本地垂迹説に基づき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする吉田神道を完成しました。それと共に兼倶は大元宮と称する八角形の神殿と斎場を建造するなどして吉田神社の権威の上昇を図ります。
また、白川家に対抗するために、「神祇管領勾当長上」などの地位を自称し、また諸国の神社・神職に対して「宗源宣旨」「神道裁許状」などと呼ばれる免許状を発行することによって、次第に全国の神社に支配を及ぼしていきます。
兼倶の教説には虚構や捏造も多く、当初は周囲の貴族や学者から強く非難を受けますが、その後吉田家による神社支配は江戸時代、幕府によって公認され、1665年の諸社禰宜神主法度によって神職に就くものは吉田家から「神道裁許状」を受けることが義務付けられるようになりました。こうして吉田家は政治的権力を手にし、その中小寺社支配は明治維新まで続くことになります。

以上が吉田神道が政治的権力を持つに至ったあらましです。
こうしてみると、吉田兼倶という人物はかなりの策謀家であったということが見て取れます。動乱の世を強かに生き抜き、最後には大きな権力を手にした吉田家。その礎を築いた兼倶はある意味、奸雄と呼べるのかもしれません。

これで今回の寺社にまつわる日本史はおしまいです。
至らない点が多々あったとは思いますが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
またご指摘等ございましたら、ぜひコメントにお願いいたします。

 追記
掲載し忘れていた参考文献を書きます。
・山川出版社『詳説日本史研究』五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編
・吉川弘文館『日本神道史』岡田荘司編

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